大震災から6年、認定こども園で再出発

津波で全壊した福島県の幼稚園が復活!

久之浜第一幼稚園から久之浜こども園に

2018年3月19日
PHOTO
津波で全壊した久之浜第一幼稚園

津波で全壊した久之浜第一幼稚園。1階の保育室がすべて流失し、卒園式の練習をしていた2階ホールと眺望抜群の多目的室だけがわずかに残っていた。東日本大震災の惨状を伝える象徴的映像のひとつになった。

壁面の色使いや天窓の三角屋根

壁面の色使いや天窓の三角屋根など、旧園舎の面影を残しながら復活した久之浜こども園。内陸の高台に移転したので、もう津波の心配はない。

志賀文岳(しが・ふみたか)

志賀文岳(しが・ふみたか)
学校法人志賀学園理事長。1950年生まれ、法大卒。「地域の再生には幼稚園の存在が欠かせない」が持論だった。久之浜こども園の出発を見届け、67歳で旅立った。福島県幼児教育振興財団専務理事、いわき市私立幼稚園協会理事長、福島県全私立幼稚園協会副理事長などを務めた。

★オープンを見届けて理事長は逝く
 2011年3月11日の東日本大震災。惨状を伝えるテレビ映像に、津波で全壊した幼稚園の姿がありました。1階の保育室がすべて流失し、2階のホールがかろうじて残っていました。2階壁面に書かれた園名は「久之浜第一幼稚園」(福島県いわき市/志賀文岳理事長・青木孝子園長)。私が過去に2回訪ねたことのある幼稚園でした。
 海岸通りに面して園舎が建ち、園庭の先には砂浜と太平洋。文句なしの“海の幼稚園”でした。海岸通りには洒落た家が並び、地元の人々は福島訛りで「ここは日本のサンタモニカだあ」と冗談まじりに言っていましたが、それも頷ける雰囲気でした。その美しい街並みが一瞬で瓦礫に変わりました。ただ、そんな場所柄ゆえ、住民は津波への警戒心が高く、幼稚園も毎月のように避難訓練を行っていました。
 地震が発生した14時46分は降園タイム。第1便のバスが出発し、園内には約半数の園児が残っていました。揺れが収まると、園児は防災頭巾をかぶって園庭に集まり、訓練どおり高台のお寺に歩き始めました。ちょうどそこに園バスが戻り、保護者会役員のワゴン車も応援に駆けつけ、短時間で移動できました。全員がお寺に到着した10分後、津波の第一波が押し寄せました。間一髪でしたが、第一便で帰った園児を含め、園児も先生も全員無事でした。
 地震から2週間後、鉄道は復旧していませんでしたが、高速バスが動き出したと聞き、私は大学同窓で同い年の理事長を激励しようと出かけました。瓦礫の園舎を見た後、理事長は内陸側の、古い市営住宅が建つ場所に案内してくれました。周囲は何事もなかったかのように家が建ち並び、近くに公立小学校と公立保育所もありました。「交渉はこれからだけど、この市営住宅跡地に幼稚園を移転して、できれば公立保育所と合体して、認定こども園で幼稚園を復活させたいと考えている」と理事長は言ったのです。四つの幼稚園を運営する学校法人と、二つの保育所、二つの養護老人施設を運営する社会福祉法人の理事長です。すっかり立ち直り、気丈に振る舞う経営者の姿に、私は恐れ入りました。
 しかし物事はそう簡単に運ぶものではありません。障壁は原発事故でした。久之浜は、いわき市の中では福島第一原発に一番近い地域だったため、放射線被害を避けて、多くの子ども達が家族と一緒に自主避難したのです。幼稚園は、20キロ余り離れた姉妹園(平第一幼稚園)に間借りし、園バスの長距離送迎で再開しました。卒園式も入園式も行いましたが、戻ってきた園児は震災前の半分足らず。「園児は戻らない、少子化で子どもは増えない。幼稚園の再建は無謀だ」「今のまま姉妹園と合体させるのがいいだろう」という声が、理事長の計画を押しとどめようとしました。理事長も悩みました。しかし悩んだ末に、「やっぱり地域に幼稚園は必要だ。幼稚園ができれば戻ってくる人もある」と改めて腹を決めました。

★保護者、卒園児らが避難先から帰還
 2017年4月、震災から6年、当初の構想どおりの場所に、久之浜こども園がオープンしました。園舎は以前と同じ赤とピンクのグラデーション。形は変わりましたが面影があります。旧園舎の跡地は市の緑地公園になり、昔の園舎に似た東屋ができました。残っていた園名入りの国旗掲揚台も記念モニュメントとして置かれました。公立保育所との合体構想は、「まだだいぶ時間がかかりそうだ」との判断で、単独のスタートになりました。
街には、まだ復旧できない施設がいくつもありますが、私立幼稚園は見事に復活しました。学園にとって、卒園児らにとって何より嬉しいことでした。ところが再開から間もない5月、理事長は体調を崩し、肺ガンが見つかりました。煙草は吸わない人でした。身体の大きい丈夫な人でもありました。しかし治療の効なく、11月末、「変だな。私はこんなことで死ぬはずはないのに……」と首をひねりながら亡くなりました。67歳でした。
 その10日後、久之浜こども園を訪ねました。翌日に発表会を控えて、保護者会の役員が自発的に集まり、窓ガラス拭きに精を出していました。「たくさんのお客さんが来られるんです。新築園舎をもっとピカピカにしようと思いまして」とのことでした。その中に、広島県に避難していたお母さんがいました。「幼稚園が復活すると聞いて、私は急いで戻ってきました。上の子が卒園した幼稚園ですから」と言う笑顔を、理事長さんに見せたかったと思いました。

※久之浜こども園の様子(動画とスライド)
※学校法人志賀学園ホームページ

ようちえん情報センター 片岡 進