東日本大震災と私立幼稚園(1)

卒園式も入園式も行えない福島県いわき市

原発の不安で住民の多くが遠方へ自主避難

2011年4月4日

★買い出し列車のような高速バス
 多くの命を奪った3.11東日本大震災。被災地の人々は苦難の道を歩き始めようと気持ちを切り替えて懸命に生きている。そして全国の人々はそれぞれの心情と行動で激励を送り続けている。
 その中にあって、人々の暮らしと共にあり、未来への希望である子ども達を預かる私立幼稚園はどんな状況にあるのか。その事例をひとつ紹介しよう。
 3月28日(月)、東北道、常磐道の一般車両通行が再開され高速バスが走り出したので、私は福島県いわき市に出かけることにした。人口34万人のいわき市に私立幼稚園は38園。被災エリアでは仙台市に次いで私立幼稚園の多い地域である。地震と津波、それに原発事故が加わり、もっともダメージが大きい地域でもある。
 「バスの予約はできないが、バス停に並べば早い者順に乗せてもらえる」との情報を得た。最初のバスは朝8時に出るという。暗いうちに家を出てその1時間半前に東京駅に到着したが、すでに長い列ができていた。鉄道が不通なので、ガソリン事情を考えると、水戸、いわき、福島、仙台方面へはバスで行くしかない。八重洲南口のバスターミナルは早朝からごった返していた。「乗れるだろうか」と心配したが3号車まで増発されたので、乗れなかったのは間際に並んだ10人ほどだった。次のバスまで1時間待ってもらうしかない。
 乗客の多くは実家に帰る人たちのようで、戦後の買い出し列車のように大きな荷物を担いでいた。家族に届ける水や食糧が入っているのだろう。私のリュックにも2日分のお茶とカロリーメイトが入っている。
 JRいわき駅前は、阪神淡路大震災の時のような傾いたビルはなく、何事もなかったかのような光景だった。しかし街頭に人の姿はほとんどなく、息を殺したようにひっそりとしていた。

★十分な津波対策でも危機一髪
 県内で四つの幼稚園、二つの保育所、二つの老人施設を運営する学校法人と社会福祉法人の志賀文岳理事長が運転する自動車に乗せてもらって北部沿岸地域に行くと、そこには無惨に破壊された久之浜第一幼稚園(青木孝子園長)があった。地震から17日が過ぎたというのに、津波直後から繰り返しテレビに映された時のままである。ここは避難指示の福島第1原発30キロエリアに近く、その不安心理から瓦礫撤去も行方不明者捜索もほとんど手がついていないという。
 海岸まで10数メートル、潮騒と磯の香りに包まれた久之浜第一幼稚園は文句なしの“海の幼稚園”だった。しかし1階部分は壁もトイレもすべて流され、瓦礫に通園バッグがふたつひっかかっていた。拾い上げた理事長は名前を確認して丁寧に自動車に積んだ。バッグも何も持たず必死で逃げた園児の姿を重い浮かべたのだろう。
 海の幼稚園なので津波への警戒意識は人一倍強く、避難訓練は繰り返し行ってきた。おかげで先生も子どもも冷静に行動し、揺れが収まると防災頭巾をかぶって園庭に集まり、みんな揃っていることを確認して、避難所と決めてある高台のお寺へ向かうことにした。
 するとうまい具合に、第1便で子ども達を送り届けた2台の園バスが相次いで帰ってきた。地震発生の14時46分はちょうど降園時間中だった。そこでバスで移動することにした。しかし園児10人と先生2人が乗り切れなかった。するとまたうまい具合にPTA会長さんがワゴン車で駆けつけてくれたので、それに乗り込むことができた。
 全員が高台のお寺に揃ったのは15時10分くらいだった。地震発生から20数分の迅速な避難だったが、津波はそのすぐ後に幼稚園を飲み込み、周辺の住宅をなぎ倒した。もしバスが戻ってくるタイミングが悪く、全員で坂道を歩いていたら、何人もの子どもが津波にさらわれたかも知れない。青木園長は肝をつぶしながらも神様仏様に感謝した。
 園舎が襲われる様子を眼下に確認した園長は、「第二波はもっと大きいかも知れない。ここでは危ない」と感じ、間をおかず、さらに遠くて高い場所に移動させた。第一波より大きかった第二波、第三波もお寺までは達しなかったが、園長の判断としては当然だった。

★原発解決までわが家には帰れない
 迅速な避難のおかげで園児は全員無事だった。しかし4月から入園するはずの子どもが1人、祖父母と一緒に亡くなった。また姉妹園の平第一幼稚園では、地震発生前に自宅に送り届けた園児が、やはり祖父母と一緒に亡くなる悲劇があった。真相はわからないが、目撃情報によると、経験豊富な祖父母であったがゆえに、津波の規模やスピードに対して「まだ大丈夫、ここなら大丈夫」という危機意識の甘さがあったのではないかと指摘されている。ある種の経験慣れである。これは今後、祖父母世代に対する啓発、訓練参加への参考にすべきだろう。
 久之浜第一幼稚園は1階部分が瞬時に壊れて水の勢いを邪魔しなかったため、2階部分はほぼ無傷で残った。その2階ホールには卒園式の予行練習をしたのであろう椅子の形が残っていた。もちろん卒園式は幻となったが、いわき市内では園舎も園児も無事だったのに、ほとんどの幼稚園が卒園式を中止せざるを得ない結果となった。原発の危険から我が子を守るため、園児を持つ家庭の多くが市外、県外へと退避したからである。事情は小学校でも同じで、大半の小学校が卒業式を中止した。
 いくら政府が30キロ圏の外は安全だと言っても、万が一の危険から我が子を守るため親は命がけで安全な場所を探す。事実、原発の危険性はいっこうに収まっていないどころか、日々状況が悪化しているようにも見える。「このままでは入園式を行うこともできないし、4月からの保育もむずかしい」と、いわき市の園長さん達は嘆いている。子どもがいないのだからどうしようもない。また何人かでも残っている園児がいるなら、その子達のために幼稚園を開け、保育を行わなくてはならない責務もある。その費用はどう手当するか、辛いところである。
 先生達が一生懸命に保育内容を充実させて「前よりもっと楽しい幼稚園になったから戻っておいでよ」と呼びかけようと思っても、原発の危険性が払拭されないかぎり、それに応えることができない。親も辛いところである。子ども達がどこかにまとまって避難しているなら、そこに出向いてサテライト幼稚園を開くこともできるが、避難指示が出ているわけではないので皆バラバラになっている。
 この状況にいわき市私立幼稚園協会(小名川清彦会長=わかぎ幼稚園)がどう対処するか。また一般メディアでは表に出てこないこうした私立幼稚園の苦難を、全国の仲間がどう支援することができるか、私立幼稚園に突きつけられた新たな深刻課題として問われるところである。
幼稚園情報センター・片岡 進