★芥川賞作品に見えた保育所論
書籍の販売減少が続く中、2015年度は盛り返した。漫才コンビ・ピースの又吉直樹氏の芥川賞作品『火花』が300万部のヒットになったからである。時流のキャッチが早い幼稚園経営者は、読んだ方も多いと思う。
奇妙な才能と視点を持つ先輩漫才師と、それに憧れる常識型の後輩が織りなす人間模様はどこの世界にもあることで、それは一人の人間の二面性とも言える。テンポの良い文章で笑わせて泣かせる展開はまさに漫才。そして自己破滅の道をひた走る先輩がたどり着いた結末は……なんと巨乳男子。常識的読者の気持ちをイヤと言うほど逆なでしたが、こんな毒を吐けるのも、保育所年長児の頃から漫才ネタを書いてきた人ならばと思ったものである。
『火花』の後半にこんな一文が出てくる。ネットの書き込みや反論について尋ねる後輩への先輩の言葉だ。「土台、俺たちは同じ人間やろ?間違っている人間がおったら、それ面白くないでって教えたらな。人が嫌がることは、やったらあかんって保育所で習ったやん。俺な自慢じゃないけど、保育所で習ったことだけは、しっかり出来ていると思うねん。全部じゃないかもしれへんけどな。ありがとう。ごめんなさい。いただきます。ごちそうさまでした。言えるもん。俺な、小学校で習ったこと、ほとんど出来てないけど、そういう俺を馬鹿にするのは大概が保育所で習ったことも出来ていないダサい奴らやねん」
複雑な現代の人間社会を、又吉氏は保育所論でサラっと切り込んでいる。ここを読んだとき、幼稚園関係者の多くは、ロバート・フルガム氏の『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』の一節を思い出したことだろう。1988年に米国で出版され、最初の1年だけで400万部を記録し、翌年に日本でも出版された本である。幼稚園教育の良さが再認識された本でもあるので、どこの幼稚園でも園長室の本棚にあるはずだ。
★「使ったものは必ず元に戻す」など14の知恵
牧師や教師などさまざまな職業を経験したフルガム氏は今、シアトルのボートハウスで簡素に暮らしている。著述家ではなく、学校の卒業式や町の式典で人生哲学を語る辻説法師だ。そのスピーチ原稿52篇をまとめたのが同書。最初に載っている約2400字の原稿のタイトルが、そのまま本の題名になった。ただ幼稚園に関する記述はその1篇だけなので、拍子抜けした幼稚園関係者も多かった。しかしほかの51篇も、幼稚園哲学を土台に語っている含蓄深いものなので、ぜひ読み直してもらいたい。
ちなみに原題は『人生に必要な知恵はすべて幼稚園で学んだ』。“砂場”は入っていない。日本の出版社(河出書房)が営業センスで加えた一語なので、なにも砂場に限定するものではない。
フルガム氏の言う幼稚園で学んだ知恵とは「何でもみんなで分け合うこと」「ずるをしないこと」「人をぶたいないこと」「使ったものは必ず元のところに戻すこと」「ちらかしたら自分で後片付けをすること」「人のものに手を出さないこと」「誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと」など14項目だ。どこの幼稚園でも毎日教えていることである。
これらは家庭生活、会社の仕事、国や自治体の行政に置き換えてもすべて通用することで、「人々が幼稚園で学んだことをきちんと実行したら、世界はどんなに良くなるだろう」とフルガム氏は結んでいる。この短くて当たり前のスピーチが、1980年代の荒廃したアメリカ社会を目覚めさせ、レーガン大統領が訴えた国家再生の道を歩みだした。
現代社会の多様な価値観では、小学校から教える「道徳」に首を傾げる人も少なくない。しかし、この幼稚園哲学はいつの時代にも通用する不変のルールである。保護者会や職員会のスピーチネタに困るとき、理事長さん、園長さんは、フルガムの幼稚園哲学を繰り返し語ってほしい。自分流の知恵と解釈を加えていくうちに、それはあなたの幼稚園哲学になっていくはずである。
余談だが、65歳になった筆者が、フルガム氏の哲学の中で一番大事だと思っているのは「使ったものは必ず元のところに戻すこと」である。簡単そうに聞こえるが非常に難しい。しかし、これがほぼ完全にできるようになると、これほど人生の快適さを感ずることもない。自分に必要なものと不要なものがはっきり見え、不要なものを捨てるのに何の未練もなくなる。さて、あなたにとっての一番大事な哲学はなんでしょうか?
※ロバート・フルガム幼稚園哲学の全14項目(PDF)
幼稚園情報センター・片岡進